その3 フェブラリーS
フェブラリーSへよせるこころ。 |
1996年 第13回フェブラリーS(G2)。 あの当時、私は羽田盃のヒカリルーファス、東京ダービーのジョージタイセイ、東京王冠賞のツキフクオー、三冠オール2着のコンサートボーイといった前年の「南関東牡馬クラシック4強」に非常に惹かれていた。 それは優駿会の他のメンバーにも同じことが言える状況で「フェブラリーSでヒカリルーファスが中央挑戦するから」という理由でパドックの横断幕は「ぶっちぎれ!光速の核弾頭 ヒカリルーファス」を出したのを覚えている。ヒカリルーファス、頑張れと。しかし私はヒカリルーファスを応援するとともにホクトベガにも「少しだけ」注目していた。それは前年あんなに強かったライブリマウントをその年初戦の川崎記念でぶっちぎり、新たなダートの覇者になるのなら一番ホクトベガが華があるのではないかと「少しだけ」思ったからである。 たしか1番人気はステップの銀嶺Sの覇者、ビッグショウリだったと記憶している。そして2番人気は、前年暮れの東京大賞典を圧勝も距離不足と軽視された平安ステークス(D1800)で楽勝し威風堂々と出走してきたアドマイヤボサツだった。それにつづく3番人気がホクトベガで、前走の川崎記念では楽勝してきたのだが、そのころはまだ交流競争は中央競馬ファンにはあまり馴染みがなく、今から考えるとかなり「甘い」人気図だったように思われる。(ヒカリルーファスはあまり人気はなかった。) そしてレースのスタートである。その日は雪がすごかった。とにかくものすごくてレースはモヤがかかっていてとにかく見づらかった。そして寒かった。どのくらい寒いかというとメインレースだというのに、あの府中のスタンド二階自由席がガラガラであったくらいに。雪も翌日の目黒記念が雪のためコースが使用できずに月曜に順延になったことからもそのすごさがわかるだろう。 その寒さと雪の中で彼女は女王の走りを披露する。3角早め(というより異常)で捲り、そのまま2着のアイオーユーに3馬身1/2の差をつけて文字通り「押し切った」のである。しかも私にはあまりにも衝撃的だったので、モヤのせいもあるだろうが、6〜7馬身以上ぶっちぎったように錯覚をいだいてしまうような勝ち方だったのだ。その瞬間を目の当たりにしてからヒカリルーファスのことは頭から消えていた。 皆さんにはわかるだろうか?「自分の応援していた馬がどうでも良くなる」という勝ち方を。私にはいままで後にも先にもあのレースしか経験してないし、これからもめったなことでは体験できないだろう。 |
ダートの女王のその後。 それから私はできる限りホクトベガの出るレースを追いかけた。ダイオライト記念、群馬記念、帝王賞、エンプレス杯(2勝目)、浦和記念、有馬記念、川崎記念(2勝目)など。マイルチャンピオンシップ南部杯、エリザベス女王杯の2つは行けなかったのだが今は後悔している。ホクトベガのそれらのレースでの強さ(有馬記念はどうしようもなかったものの)はご存じのことだと思う。 (余談だが群馬記念ではヒカリルーファスがホクトベガの2着に健闘している) しかしその後の彼女は異国の地で客死する。それも突然に。私はそのことをスポーツ新聞で知った時、あまりの突然のことに絶句し、ある種の虚脱感を抱いたのを覚えている。そして彼女の仔を楽しみにしていたこと(どんな種牡馬が彼女には合うのか友人と話したこともあった)、引退式を府中でやったとしたら絶対行こうと思っていたこと、ホクトベガの交流ダート戦での圧倒的な勝ち方の想い出など、が心の中から吹き出してきたのである。 |
フェブラリーS。 私にはホクトベガ=フェブラリーSという図式がいまだに残っている。それは初めて生で「ダートで強いホクトベガ」を観たレースだったからかもしれない。(4歳時のカトレア賞、1勝目のエンプレス杯、同じく1勝目の川崎記念は映像のみなので)そして初めて生で観た「フェブラリーS」もまたこのホクトベガのレースだということなのかもしれない。 いずれにせよ、そのような想い出に残る馬に出逢えたこのフェブラリーS、今年はどのようなドラマが、そしてどのようなダート界の名馬がこのレースから生まれるのだろうか?交流G1の川崎記念と日程が重なってしまいメンバーが分散してしまったのが残念だが、今年は私が最高に好きな馬−ウインドフィールズが菊花賞以来3年ぶりにG1に出走するということで、さらに思い入れが強くなったこのレース、好レースを期待したい。 しかし注意しなければならないことが私にはひとつある。それは私にとってのウインドフィールズが2年前のヒカリルーファスのようにならないようにすることである。 |
文章・増田浩史(優駿会員M) |